亡くなられた方の御遺骨をお墓や納骨堂などに納めることを納骨という。納骨は四十九日の満中陰や百箇日を機に行われることが多い。ただ、家族の心情的にまだそばにいたいときなどはしばらく仏壇にお祀りしてもいいし、逆にお墓があり配偶者が先に亡くなっておられる場合などは満中陰の時に納めてあげるほうがよいかもしれない。
また、これとは別に本山納骨と呼ばれるものがある。日蓮宗では、阿仏坊の子藤九朗守綱がはるばる佐渡から父の遺骨を日蓮聖人の棲まわれる身延へ納めに来たことからも伺えるように古くからお骨を聖人のおそばに納めて供養することが行われてきた。
能勢妙見山でも、故人が長年親しんできた妙見山で供養して欲しいという期待に応え、納骨供養の場を作りたいと準備を進めている。
更新日:2010/09/01
お寺や神社に行くと必ずおいてあるのが賽銭箱だ。私達はお詣りをする時、習慣的にお金を入れるが、これは仏さまやご守護神様へのお供えでありお布施である。
お布施というと法事の御礼としてお坊さんに渡すものというイメージがあるかもしれない。最近では定額制を謳った広告も見かけるが、布施とは労働に対する対価ではなく仏教の修行の一つである。神仏やその教え、また教えを説く僧侶へ施しをすることで功徳を得るとされる。
また、布施は大分すると以下の三種類がある。一つは、物やお金を施す財施。二つ目は仏教の教えを人に話す法施。そして三つ目が人々の不安を取り除いて安らぎを与える無畏施(むいせ)である。
家族と笑顔で接したりお寺で聞いてきた話を聞かせてあげたりして布施を行じ徳のある生活を送ってみてはどうだろうか。
更新日:2010/08/01
お堂の前に垂れ下がっているヒモを振るとがらんがらんと荘厳な音がする。この音響具を鰐口といいお寺や神社でよく見かける。
これは、参詣者の来意をお堂の神様に伝えるものであり、家でいうところのインターフォンのようなものである。
一生懸命な気持ちの表れかもしれないが、全力で鰐口を叩いている方をたまに見かける。仏さまに来たことを知らせることは大事であるが、やたらと大きな音で鳴らすとかえって耳障りとなり仏さまに対して失礼にあたる。鰐口は音を供養するという意味もあるため、力を込めて大きい音をだすよりも、仏さまが聞いて心地よいように、いい音を出すことが大事だ。
鰐口を叩いてこれから参詣する旨を神仏に表明しその音色を供養する。その後一心にお題目を唱えれば、必ずより多くの功徳が得られる。
更新日:2010/07/01
太鼓は法要に無くてはならない仏具の一つである。重厚感のある音は場を荘厳にし、テンポのよいリズムに合わせて唱えるお題目は心の雑念を取り去ってくれる。
また、日蓮宗では団扇太鼓をよく使う。団扇太鼓とは円形の枠に革を張り柄をつけただけのシンプルな太鼓だ。その見た目に似合わぬ迫力ある音と通常の太鼓より手軽に携帯できるため僧侶が行脚で使うだけでなく、江戸時代中期にはすでに様々な講中で使われるようになっていたといわれている。
団扇太鼓の打ち方は、お題目に合わせて、五打ないしは三打する。行脚の時は五打が用いられ、講中では三打が多い。
最近太鼓を打ちながらお詣りする方は減ってきたが、周りの方の邪魔にならないよう気をつけさえすれば、太鼓片手に大勢で参詣に行くのもお詣りの醍醐味ではないだろうか。
更新日:2010/06/01
初詣に行くと、今年一番の運試しと、おみくじを引いて一喜一憂している光景を見る。近年では、当たった外れたと、運試しくらいにしか考えないでおみくじを引く方も多いが、おみくじ発祥の古代中国では、国の政などに関する重要な事項を神仏に問うために用いられたものであった。
日本には弘法大師あるいは元三大師が伝えたといわれておりそれがやがて日本全国へと普及していった。
おみくじを吉凶だけ見てすぐに木に結んでしまう人もいるがそれは大変もったいない。おみくじには神仏からのメッセージが書いてあり、これを熟読し自分の状況に置き換えて考えることで、壁にぶつかった時でも必ず進むべき方向が見えてくる。
まず、引く前に何を占うのかを真剣に考え、引いた後はじっくりと読んで今後の行動に活かしていくのがよい。
更新日:2010/05/01
お墓参りに行く時はお花を持っていくし、お寺の本堂にもお花が飾ってある。このような仏前にお供えする花を供花という。
お供えする時、花を仏様か私たちの方か、どちらに向けて良いのか迷うかもしれないが、花の背をご本尊に向けてお供えするのが基本だ。そうすると、花の表は私たちの方を向くことになるが、これにより私たちの信心はより高まるのだという。
お供えする花の種類に特に決まりはなく、全ての花は私たちを苦しみから救って下さるという仏様の心を表すと言われる。
なかでも「南無妙法蓮華経」のお題目にもある蓮華は特に良いとされる。
蓮華は泥の中にあっても汚れず美しい花を咲かせる。それは、私たちが住むこの泥沼のような世界にあっても、心清らかに生きていくことを説く法華経の譬えでもあるからだ。
更新日:2010/04/01
絵馬に願い事を記して奉納すると願い事が叶うといわれている。干支など様々な絵柄があるが、これを絵馬と称するのは、元は馬の絵が描かれていたからである。
馬は高貴の乗り物であり、仏神の乗り物として馬を捧げると無量の功徳を得ることができるとされていた。特に青馬は争い事や病気などを鎮める力を授かり、赤馬は商売の繁盛や物事の隆盛を祈るに貢献大きいとされていた。しかしながら馬一頭を奉納することなど、一般の者にはとてもできることではなく、そこでせめて絵に描いた馬を捧げようとしたのが始まりといわれる。絵に描いたものでも、馬を奉納する気持ちが大切だ。
いずれにしても、願いを自身の手で書き、仏神に相対してその面前で自ら至心に絵馬を捧げるということは、信仰の原点であり、その功徳の絶大なることは言うまでもない。
更新日:2010/03/01
寒(かん=小寒から立春の前日まで)の間にお滝に入り水に浴すれば、病気にならないなどと言われ、古くからお滝で修行する人は少なくない。武道の寒稽古も、勇壮な趣がある。
本宗の水の行には大きく二つの功徳があるとされる。一には心身を清浄にする。二には不惜身命の心を養い、仏の教えを守る心の力を強くするという。
お滝に入るにはまず水行衣を着した後、仏祖・諸尊に対し一心に読経唱題する。次に唱題の中で水を頭・顔・四肢・躰の順にかけて十分に冷やす。これを怠ると躰を痛めて逆効果になってしまうのでご注意。しかる後唱題しながら滝に打たれる。この時決して頭に水を受けるのではなく、肩に受ける。また長時間にわたって滝に打たれることは、本意ではないとされる。要はお題目を戴く気持ちで水を頂戴することが肝要である。
更新日:2010/02/01
神前に供える酒をいう。仏教においても御供物(おくもつ)の一つとして仏前に、また妙見様などの守護神に捧げる。酒は穀物や果実のエッセンスであり、生命の源とされるなど、古来神聖なものと考えられていた。そのため塩などと同じように、土地を清めるときなど御神酒を撒いたりすることもある。
また神に供えた御神酒をいただき体内に入れることにより、神との交流がなされ、非日常の世界に入ることが出来るとされた。結婚式など、特別な縁を結ぶとき盃を交わすのもここから来たものであろう。
神仏と関係ないときでも、酒を飲むのに、しゃれて「オミキをいただこうか」などということがある。新年会など何かとオミキをいただく機会が多い時節だが、呉々もオミキが過ぎて非日常の境に入り浸らぬようご注意を!
更新日:2010/01/01
坊さんが忙しくて走り回るから師走だ、などと言われるが、坊さんでなくても忙しいのが年の暮れである。せめてお正月ぐらいはのんびりすごしたい。そんな思いもあって、たまっている仕事を片づけたいと、走り回ることにもなるのだろう。
一年の計は元旦にあり。それなら、一年の締めくくりはやはり年の暮れと言うことになる。一年間をふり返れば、様々なことがあったことに気づく。
良かったことは大切な宝物に、嫌なことや良くなかったことは来年へ持ち越さないように、そして新年は新たなる出発点としたい、と誰もが願う。
除災得幸=旧年の災いを除き新たな悦び幸せを得る。
開運隆昌=運勢を開き盛んなる人生をおくる。
そんな願いをこめて、仏前で一心に一年の精算を祈るのが師走のお詣りではないでしょうか。
更新日:2009/12/01
最近家庭の仏壇では電球の明かりをつけている所も多いが、一般にはロウソクに火をつけ仏前にお供えする。この明かりを灯明という。また、もっと昔は油に火をともす油皿が使われており、延暦寺では灯明の火を絶やさないように細心の注意を払ったことから「油断大敵」という言葉が出来たという説もある。
灯明は仏の智慧を象徴するものである。それは、灯明の光が暗闇を明るく照らすように、仏の智慧もまたこの世の暗闇を照らし、そこで迷っている私たちを導いて下さるからである。
近代日蓮宗学の大成者といわれる優陀那日輝上人は、お供え物で最も大事なものの一つに灯明をあげ、灯明は私たちの心を厳かで静粛にし、自分を制御して戒めを持つのを助けてくれると述べられている。
なお、お詣りの後、火の始末にはくれぐれもご注意を。
更新日:2009/11/01
お寺といえば立ちこめる線香の煙をイメージする方も多いのではないだろうか。実際、私たちもお詣りする時に必ず線香をつけるがこれは一体いつの時代に始まったことなのだろうか。
仏様への供養として香りを捧げることは古代インドにおいてすでに行われており、法華経を含め様々なお経からもその記述が見て取れる。
お釈迦様の生まれたインドは暑さ厳しい国のため、香りについては特に気を遣っていたようだ。昔のインドでは線香より塗香がよく使われており、それを身体に塗るだけではなく、壁や座る所にまで塗って仏や僧を供養したという。
また、お香は仏様に供養するだけでなく、捧げた者の身体や心にある臭穢も払うといわれている。線香を捧げれば、その功徳により自分自身も清浄になるのである。
更新日:2009/10/01
願い事がひどく困難なものだったり、どうしても実現させたい願いがあり、何とかしてその思いをご守護神様に分かってもらおうとする時、お百度詣りをする。
元来、百日間かけて毎日お詣りして願を掛けていたものを省略し一日で百回お詣りをするようになったのがその起源という。だからといって百回お詣りをしないと効果がないわけではなく、願いの度合いに応じて回数を加減してもよい。
お百度詣りのやり方はお寺によって多少の違いはあるが、当山でお百度詣りをする場合は以下の通り。
まず、お堂の脇にある数取り棒をお詣りする回数分取る。次に、お題目を唱えながらお堂を回る。お堂を一周回る毎にご守護神に向かってお題目を唱えてお願いをし、数取り棒を一つ箱に戻す。全ての数取り棒がなくなるまでこれを行う。
更新日:2009/09/01
ご先祖の供養のことを追善回向ということがある。回向とは読んで字の如く回して向ける事だが、一体何を回し向けるのだろうか。
答えは、私たちが積んだ善行による功徳である。ご先祖の回向の場合、亡くなったご先祖様に自身の功徳を送り届け死後の成仏を祈ることを言う。
日蓮聖人も、師である道善房の死去に際して著された『報恩抄』に、自分が今までの生涯に積んできた一切の功徳を回して、道善房の追善菩提に資しようとされたとある。
旧暦七月(現在の八月)の十三日から十六日は全国的に盂蘭盆会が行われる。この行事は目連尊者が法華経の功徳により母を餓鬼道より救ったことに始まったと伝えられる。
日頃は忙しさにかまけて、ご先祖様に手を合わすことが難しかったとしても、この時期だけは先祖の菩提を弔いたい。
更新日:2009/08/01
祈祷とは祈り、または祈ることである。
日蓮宗においては、仏様やご守護神を信じてお題目や法華経を一心に唱え、請い願うことを言う。
自分一人でお題目を唱えて祈っても良いし、お寺の受付で御祈祷を申し込んでもいいが、受付でお願いすればお上人が一緒になって祈りを捧げてくれる。
日蓮聖人も幼少の時「日本第一の知者となし給へ」と願を掛けられたのを始めとして、伊豆流罪の時に地頭の病悩を祈って快癒させたり、文永元年には母の病悩を祈って延命させたこと等が有名である。
当山は法華経の祈祷の効験を実感した能勢頼次の寄進によって建立され、眞如寺並びに能勢妙見山は能勢家の祈祷所として開かれて以来、四百年以上に渡り御祈祷の歴史を刻んでいる。
お詣りの際は、御祈祷を申し込まれることをお勧めする。
更新日:2009/07/01
お寺に行く時に持っていくものはと聞かれて、真っ先に思い浮かぶのが数珠だろう。
数珠の起源はキリスト教で用いられるロザリオやイスラム教のミスバハなどと同じで、お釈迦様の国インドから始まったものであり、元は祈りの回数を数えるための道具であった。
元来同じ物が、東では数珠、西ではロザリオなどと呼ばれるようになった事は興味深い。
数珠は通常百八の珠からなり私たちの煩悩を示しているという。他宗では珠の数が五十四や四十二などの略式の数珠を使うこともあるが、日蓮宗では僧侶も信徒も本式の数珠を用いる。
なお、数珠の用い方については後日を期したいが、ただ一心にお題目を唱え、数珠を繰り返し数えれば諸々の煩悩を除き、仏様のご加護を頂ける。
たとえ観光でお寺へ行く時でも数珠は持っていきたい。
更新日:2009/06/01
多くのお寺では入口付近に手を洗うための水が用意されている。
古来より宗派を問わず、水は霊力を宿しており心身を浄めると考えられてきた。お寺の浄水で手や口をすすぐことは、日常生活で知らず知らずのうちに積もっていった心と体の垢を洗い流し仏様や諸天善神にお祈りをするための準備を行うことにほかならない。
また、清浄な身と心になったところで、お願いしたい内容を心の中にできるだけはっきりと思い描き、仏様に対してしっかりとお祈りが出来るようにしておきたい。
大切なのは、お祈りをする仏様や諸天善神に対して畏敬の念を持つことである。
形だけ手や口を洗うのではなく、お願いを聞いて頂く仏様に失礼の無いように、心身を浄めて自分自身の気持ちをしっかり固めることが重要である。
更新日:2009/05/01
合掌は仏や守護神を拝む時の基本である。
皆様もお寺にお詣りに行ったときや道路脇のお地蔵様などに手を合わせることがあるのではないだろうか。
形としては、指と掌をぴったり合わせ、中指の先を喉の辺りの高さにし、両親指の第一関節を軽く胸の前に付ける。
インドでは右手を神聖な手、左手は不浄な手として使い分けられており、両手を合わせることは聖なる仏と我々衆生とが一緒になるという心を表している。
法華経において合掌の使い方を見てみると、「一心合掌瞻仰尊顔」(神力品)など数々合掌する場面が出てくるが、いずれも仏を礼拝して恭敬の念を表す時に合掌している。
お詣りするときは願いを胸にしっかり合掌したい。
今月から新連載「お詣りのしかた」を始めました。ご意見をお寄せ下さい。
更新日:2009/04/01