能勢妙見山 |
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| ■ 妙乃見山 11月号 | ||
杞憂(きゆう) / 新実信導 ある日、家の戸締まりを任されて出かけることになった。家の留守をたのんで出かけるのと、自分が最後に確認して出かけるのでは天と地ほど違うことに改めて気がついた。 ガスの元栓は閉めたか、石油ストーブは消したか、部屋の電気は消したか、これらを確認し、最後に施錠をして出かける。出かけて間もなくストーブの火を消したかどうか確認をするために戻ることもしばしばであった。出かけていても自分の不注意が元で火事でも起こしはしないか心配になる。家に帰って何事もなくてホッとした。すべてを確認して出かけることはこんなに大変であったのかと、留守番がいることの有り難さを痛切に感じた。 中国古典『列子』に「杞憂」という寓話がある。 杞の国のある男が、天が落ちてきて地が崩れはしないかと心配し、食事ものどを通らず、夜も眠れずにいた。それを心配した友人が「天は気が固まってできたもので、天が落ちてくることはない」といって安心させた。しかし男は、「太陽や月や星が落ちてくることはないだろうか」とまた心配する。すると友人は「太陽も月も星も気の中の輝きを放っているものに過ぎないから、落ちてきても怪我はしない」と説明して男は安心した。杞国の人が憂いて心配したことから、「無用の心配」を杞憂という。 この杞憂の話からも知れるように本当に安心はあるのだろうか。何時何か起こるか判らないから心配が尽きないのである。このような不透明な世の中でも、この世を見通すことができるのが法華経なのである。 日蓮大聖人は、「お釈迦様のお説きになられた教えは明鏡であり、その中でも法華経は神鏡である。銅鏡は人の顔を映すが心を映すことはできない。法華経の神鏡は人の姿を映すだけでなく、その心までも映す」(『神国王御書』)と私たちに示されている。法華経を信仰することで心が安心を得られ、災いも転じることができる。必ずや杞憂からも開放されるであろう。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 失ったもの / 末田真啓 新聞記事によると、振り込め詐欺による被害が上半期だけでもおよそ一六七億円になり、過去最悪のペースになっています。警察の厳しい取締りにも拘らず、だましの手口も巧妙になり被害は一向に減らないというのです。簡単なトリックのようですが、人間心理の弱点を熟知している悪者は肉親への心配や不安を武器にして使ってきます。冷静な判断ができなくなって、気が付いた時にはすでに大金は手元にはありません。 だまし屋は人間だけではありません。動物も人を騙すと言われています。その代表的なのがキツネとタヌキです。いつもの道を帰っているつもりが、まわり道をさせられたとか、大金を掴んだと思って気が付いてみると枯葉だったという。こちらは詐欺というより、むしろ昔話か笑い話として語り継がれています。 ところが、最近キツネにだまされたという話を聞かなくなりました。一説によりますと、「日本では昭和四十年を境に人がキツネにだまされたという新しい話が発生しなくなる」というのです。この時、日本は高度成長期を迎えて経済の発展と開発が優先され、一方では「ウサギ小屋」に住む「エコノミックアニマル」と揶揄され物質主義の弊害から人間性の喪失と言われた時代でした。祖先から受け継いだ精神を失った日本人が人に騙され、キツネに騙されないというのはなんと皮肉なことでしょうか。 日蓮大聖人は『兄弟鈔』の中で「この世は第六天の魔王の所領であり、一切衆生は過去世から魔王の眷属である」という。さらに魔王は私たちに「貪・瞋・痴という三毒の酒を飲ませ仏性の本心を狂わせる」とあります。大聖人は「たとえどのような困難があってもそれは夢だと思って法華経を信じなさい」と教示されています。魔王の威力から逃れ、仏性の本心を得るためには法華経を信仰する以外に他なりません。この世に法華信仰の花が咲けば、きっと振り込め詐欺も消滅し、キツネもタヌキも化かさない世になるでしょう。 | ||
| ■ 妙乃見山 10月号 | ||
銀寄(ぎんよせ) / 日 慧 秋の味覚の代表=栗。その種類は、野生種から栽培種まで数多くある。中でも銀寄(ぎんよせ)という種類の栗は一個二〇グラムを超す大きな実で、品質の高さは全国的に有名である。 この銀寄、江戸中期の宝暦三年(一七五三)現能勢町倉垣の人がたまたま発見したという。これを増殖して隣国丹波の亀山に出荷したところ大変よく売れた。そのためお金(銀)を寄せるという意味から「銀寄」と呼ばれるようになったそうだ。丹波栗と呼ばれるのもこの銀寄だと聞いたことがあるが、「能勢栗」では当時売れなかったようだ。 真如寺でもかつては植えており、時期になると子供も手伝わされて栗拾いに行ったものである。ところがせっかく拾ってきても、大きくて美味しそうな栗は贈答用に使われ、子供の口に入るのは小さな芝栗か虫の食ったものであった。大きな美味しい銀寄を思う存分食べてみたいと夢見たこともあった。 ところで銀寄の増殖方法だが、実生で苗木を育てるのではなく、良い親木の枝を接ぎ木する方法で増やしている。種からでは時間がかかるためか、それとも良い苗木ができないためなのか。また特別な技術をもって、枝を剪定することによりよりよい果実を得ることができるそうである。 何気なく食べていた栗だが、実は一本の木の発見から始まって二五〇年を超える歳月の間、栽培の技術を代々に伝えてきた人々の労苦があって、今口にすることができるのだと思うと、よく味わって食べないと申し訳ないような気がする。 私たちの周囲を見回してみれば、栗だけではない。自分以外の他の力を借りずに、手にし口にできるものはひとつとしてないことに気づく。「縁(えん)」というものがこれである。縁すなわち他の力に生かされているのが私たちなのだ。従って自分が良くなろうとすれば、まず他を良くしなければならないのである。仏様は、これが菩薩行であり、仏の世界への直路だと説かれているのである。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 食欲の秋、実りの秋 / 服部憲厚 秋といえば食欲の秋、とは言うものの慌ただしい毎日を送る私たちにとって、ゆっくりと食事を楽しむ機会は少なくなっています。味わって食べるより、手軽にすばやくが今の食における流行かもしれません。 先日私は、池田市にあるインスタントラーメン発明記念館へ行ってきました。お湯を注いで三分で美味しいラーメンが食べられる。カップ麺は私も日頃からお世話になっています。記念館では即席麺の発明に到るまでの苦労、小さなラーメン一杯の中に込められた技術や工夫が紹介されていました。 発明者は日清食品創業者の安藤百福さん。戦後の混乱の中「食」の大切さに着目し自宅裏の小さな小屋で試行錯誤の研究の末、発明された「チキンラーメン」後に発売される「カップヌードル」は世界の人々に食され食文化を変えました。この世界の食文化を変えた発明は安藤さんの「食足世平(=食が世の中を平和にする)」という信念から生まれたのだと知りました。 「正しい教えこそ世の中を安穏にする」これは仏様が人々に教えを説き続けられた信念です。一人も欠けることのない平等の救い、仏様の本心が法華経に説かれ、その法華経のエッセンス、仏様のすべてがお題目に凝縮されているのだと日蓮聖人は御教示されておられます。「仏様がすべての人々を救おうとされた修行とその悟りの功徳はお題目の中にすべて具(そな)わっています。よって私たちはそのお題目を受持する事で自然とその功徳を頂けるのです」(『観心本尊抄』) 一杯のカップ麺の中に、安藤さんの情熱と知恵が込められているように、お題目の中にも仏様の大慈悲と智慧が込められていたのです。 何も知らずに食べていたカップ麺、仏様の御心を知らず唱えていたお題目、カップ麺をすすりながら無知な自分を恥じています。 食欲の秋、仏様の大慈悲に感謝し、お題目の醍醐味をじっくり味わって実りの秋にしたいものです。 | ||
| ■ 妙乃見山 9月号 | ||
こんな時代だから / 植田観肇 最近はガソリンの価格に毎月一喜一憂しています。食品もじわじわ値を上げ財布を締め上げてきました。また、先日の新聞ではついに景気が後退局面に入ったと報じられました。長引くサブプライムローン問題やいつまでもくすぶる戦争やテロのニュース。最近いい話は聞きません。 社会の情勢が不安定になってくると、今まではそこそこ成功していた事が途端にうまくいかなくなったりして、自分がやっていることが本当に正しいのか不安になってきます。 それは信仰においても同じで、失敗が続くとお題目を唱えても意味がないんじゃないかと勘ぐってしまいたくなるのは我々凡夫の悪い癖です。 日蓮聖人の生きておられた鎌倉時代も地震や疫病で社会不安が蔓延しておりました。そんな中で聖人は教えを広げていかれたのですが、当時の政府である鎌倉幕府に諫言を行ったことから幕府に逆らう者として激しい弾圧を受けることになります。その弾圧の最たるものが竜口法難でした。幕府に反逆するものとして竜口の刑場で頸を切り落とされそうになったのです。 当時の幕府はこの法難を契機に日蓮教団への弾圧をさらに強くしました。聖人は佐渡へ流罪になり、有力な門弟はとらえられ、信徒には所領没収などの罪科が課せられました。このような中「千が九百九十九人は堕ちて候」(『新尼御前御返事』)というように数々の弾圧の前に不安になって信仰をひるがえす人が続出しました。 その状況にも関わらず、聖人はいっそう思索を深め死を覚悟して開目抄と観心本尊鈔を執筆されました。これによって法華経信仰の正当性を再確認され、弾圧の下で再び信仰の輪を広げていかれたのです。 今は先が見えない暗い世の中ですが、その道を照らしてくれるのは法華経でありお題目です。聖人が生命を懸けて説いて下さった法華経を私たちも深く信じてお題目を唱えれば道は必ず明るく照らされます。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 仲良き事は… / 宮本観靖 「人の気持ちは難しいな」 電話していたとき、友人がそう話しを切り出した。 「何があったんや」と聞いてみると夫婦ゲンカだ。売り言葉に買い言葉でケンカに発展し、奥さんは実家に帰ってしまったらしい。 彼からこんな話を聞くのは何度目だろうか。いつもケンカのきっかけはつまらないことが多い。今回も、「嫁さんが冷蔵庫に入れておいたジュースを勝手に飲んでしもてん」とのこと。 きっかけは些細なことでもケンカにまで発展するのは普段からのストレス、不満などもあろうが、それを表す言葉にも問題がある。 私も言葉で失敗したことがある。「あ〜一言多かった」「キツイ言い方をしてしまった」と後で思う事がよくある。そんなときは相手の気持ちを考えず自分本位で言ってしまったことが多い。親しい関係であればあるほどその傾向が強い。自分にとって親しい人は、自分の気持ちをよく解ってくれていると勝手に思い込んでいるからである。 反対に、自分がその親しい人の気持ちをどれだけ理解しているのかと改めて考えてみると、自信をもって「こうだ」とは言い難い。 人の気持ちを解るには常に相手の立場に立ち、理解しようと思い、相手を敬う心を持とうとすることが大切である。そのような心から出た言葉は決して人を傷つけることはないはずだ。 「仲良き事は美しい哉」という言葉があるが、これは相手を思いやり、理解し、互いが敬っている、そんなお互いの心が美しいという意味ではないだろうか。 互いが自分の主張をするだけではなく、相手を敬い理解しようと努力すれば、より多くの人同士が美しい関係を築くことができるのではないだろうか。 日蓮宗ではいま、「立正安国・お題目結縁運動」を推進している。その大きな柱のひとつが但行礼拝=他を敬うということである。世界中の人々が、互いに敬い合う世の中になれば、いがみ合いもケンカも、紛争も戦争もない、理想の社会が実現できると信じる。 | ||
| ■ 妙乃見山 8月号 | ||
涼風 / 新實信導 暑い。とにかく暑〜い。「あつい」と声を出さずにはいられない。近頃の原油高により、ガソリンはもとより、食料品や生活用品、電気・ガス等の光熱料金までもが値上げされ、生活はさらに苦しい状況だ。この暑さではエアコンに頼りたいところだが、電気代が気になるのでなるべく使わないように努力している家庭も多いと思う 思えば、エアコンのない昔は、暑さをしのぐために家の天井を高くし、戸や窓をを大きく開けることで少しでも多くの風を取り入れようとした。この風が扇風機にとってかわり、やがてエアコンが普及して、今では家の各部屋に備えられるようになった。 昨年までは少しでも暑いと窓を閉め、エアコンを入れ、吹き出し口から流れてくる快適な冷風を浴びていたが、今年は違う。幸か不幸か、エコ努力か電気代節約のためか、できるだけエアコンを使用せず、すだれやよしずをかけることで、暑さ対策に努力している。 この努力の甲斐あってか忘れかけていた自然の涼風が体感できたのである。すだれの間をスーと抜けてくる風が実に心地よい。 日蓮大聖人は『事理供養御書』というお手紙に「法華経は私たちの心がすなわち大地であり、大地はすなわち草木であると説く。また諸経では私たちの心が澄むのは月光のようであり、心の清らかなことは花のようであるというが、法華経はそうでなく、月こそ私の心であり、花こそ私の心であるという教えである」と説示されている。つまり、法華経以外のお経では自然の風光は私たちの心の譬えとして用いられているが、法華経は、自然の風光そのものが私たちの心であると教えられているのである。 暑い日射し、そこに漂う風。ひとときの涼風を受けたとき、風の有り難さを知ることができる。まさに仏様から与えられた風を体感しているのである。自然と一体化すること、すなわち仏様の徳という風を受け入れるため心にも大きな窓を開けたい。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 仏祖のお言葉 / 山本観詠 人間はどんな時でも相談相手がほしいものです。自らの限られた経験や考えだけでは不安になります。実際何か行動を起こすとき、十分な確信に裏付けられていることは多くはないでしょう。できる事なら信頼できる友人に教えてもらったり、勇気づけられたりしたいものです。そんな時、近くによき友人がいてくれればいいのですが、いつもそうだとはいえません。 私はそういった時、生身の人間に代わるものとして良き友人を、お釈迦さまが私達に最も伝えたかった教えである妙法蓮華経や日蓮大聖人の御遺文の中に見出してきました。 御遺文は日蓮大聖人の血のにじむような体験の中から生まれた御言葉です。それらは私たちの心に強く響き、私たちを正しい方向に導き、実際に行動する気持ちを鼓舞してくれます。膨大な御遺文すべてを一度に読む必要はありません。一言一句でも自分の身に置き換えて吟味することによって生きてくるはずです。そして私たちが自分の脇において時にひもといてみるならば良き友がいつも身近にいるのと同じように心の豊かさを感じることができるはずです。私たちは御遺文の中から必ずや良き友人に出会うに違いありません。それはきっと日常の仕事、家庭生活、生き方について改めて考え直し、更には新しい目標に対して勇気をもって前進する力を与えてくれることでしょう。 最後に、私が常に心にもっている御遺文をご紹介しましょう。 我が頭(こうべ)は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり、譬えば種子(たね)と菓子(このみ)と身と影とのごとし 私たちはともすれば一人で生きていると考えがちです。しかし、実は父母や先祖、周囲の多くの方々とのご縁の中に生かされているのです。今月はお盆です。父母を思いご先祖様を思い法華経を流布された日蓮大聖人を思い如何に生きるべきか考えてみてはいかがでしょうか。 | ||
| ■ 妙乃見山 7月号 | ||
生命は第一の財なり / 日 慧 青い空に浮かぶ真っ白の入道雲。うっとうしい梅雨空が続くと、晴れ渡った夏が待ち遠しくなります。 ところが今年の梅雨は能勢地方ではまとまった雨が意外に降りません。そのため我が家ではちょっとした騒動が持ち上がりました。 事の起こりはモリアオガエルです。梅雨になると毎年、ソフトボール大の卵が池の上にかかった木の枝に産み付けられます。やがて雨の雫とともに、卵からかえったモリアオガエルのオタマジャクシが池の水面に落ちていきます。ところが今年は、裏庭の池は干上がってしまい、生まれたばかりのオタマジャクシが干物になりそうな状態でした。このままでは可愛そうだ、ホースで水を入れてやろうという意見が出ました。 しかしこれは人工の水たまりだ、私たちは自然の成り行きを見守るべきだという意見も出ました。かくして家中で論議が起こり結構もめました。生まれたばかりのオタマジャクシが可愛そうではないか。いやこしらえた水たまりは雨の降らない今、他の動物にとっても住みやすい、オタマジャクシの敵もたくさん集まってくるから、結局は食べられてしまうだろう等々。決着がつかないまま日が過ぎていきました。気心知れた家族でもこの状態。ものの見方というのは、人によって全く違うものだということがよく分かりました。お互い自分が正しいと思い込んでいるのですから、中々譲ろうとはしないのです。 幸い雨が降り、オタマジャクシは無事水中に生まれていきました。でも下で待っているイモリに食べられたのもいますし、運悪く水のないところに飛ばされたのもいて、現在は数えることができるぐらいに減ってしまいました。自然は想像以上に厳しいものでした。 「生命と申す物は一切の財(たから)の中に第一の財なり」とは日蓮大聖人のお言葉です。オタマジャクシの生命が大事だと思うから出てきた議論です。生命の尊さを、私たちはもっともっと真剣に考えなくてはならないのだと思います。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 同じ屋根の下 / 詠裡庵 「天井裏で、チュウと言う泣き声とチョコチョコと走る足音、その後から少し大きな動物の足音が響いてくるんですよ」 「ウチも、天井裏を走る小さな足音と、それを追っかけるような少し大きな足音が響いてますんや」 ご近所の人たちが集まるとこの頃そんな話で盛り上がる。 山や田畑に囲まれた家に住んでいると、退治しても退治しても繰り返し聞こえる足音だ。食べ物があるからと言う人もいるが、そればかりではないらしい。雨風が当たらないし、暑さ寒さも家の外よりましなのかしら、またやってくる。 田舎の家はゆったり建てられているので、知らない同居家族も多い。ネズミ、イタチ、蜘蛛、アリ等々。 先日は猪の子が、池の中で死んでいた。小さな池だから、自らおぼれて死んだとも思えない。アライグマか何に襲われたのだろう。猪の家族は、まるで自分の家にいるようなつもりで人間の庭にまで入ってきているから、子供が無防備にも一人歩きしていて外敵にやられたのかも知れない。 どの家もそんな、あたかも野生動物の天国のような状態だから何とかしたいけれど、これならという対策が出てこない。堂々巡りをするばかりだ。そこで、ウチではこうだ、いや私の所ではこんなだというように被害状況についての話がどんどん広がっていく。 困った時には、誰かに話した方がよい。問題の解決までできなくても、自分だけではないと気づいて気持ちが楽になる。一緒に考えようという気持ちが出てくる。もし話し相手がいないときには、文章にしたり、メモ書きしたりすると、それだけでも心の整理が出来て、第三者であるかのように、気持ちを整えながら考えることが出来る。 そんな気持ちになって今一度、状況を分析してみよう。ネズミがいる、イタチがいる、アライグマが出てくる、猪もいる。何がいけないの? 自然を満喫できる。それでいいじゃないですか? そうかもね。 |
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| ■ 妙乃見山 6月号 | ||
反復練習を超えて / 植田観肇 かわいいリスが機械から出てきたクルミの善し悪しを判断し、良いクルミだけを割って中身をチョコレートの機械に入れます。 これは映画「チャーリーとチョコレート工場」の一場面ですが、なんとこのシーンはCG(コンピューターグラフィック)ではなく本物のリスを使って撮っています。動物の本能に逆らってクルミの中身を食べないよう訓練をするのは非常に大変で、このリスは二千回を超える反復練習を積み重ねたそうです。 このリスは大変な(トレーナーの?)努力によって本能を超えることができましたが、ひるがえって自分はどうでしょうか。私たち人間は本能ならぬ煩悩に日々悩まされながら生活しております。何とかして煩悩のない幸せな生活を送れるようにできないものでしょうか。 日蓮聖人は私たちのこんな疑問に対して、努力で煩悩を消し去ってしまうことは大変難しいけれど、法華経を全力で信じることで私たちも仏様の境地に達することができる、とおっしゃっております。 では、法華経を信じるとは一体どういうことでしょうか。 お寺のお上人はお題目が大事だと言うし、とりあえず毎日お仏壇に向かってお題目を唱えているけど、それだけで「信じる」ことになるのでしょうか。 答えは半分イエスです。お題目を唱えることは非常に大事な事で、それを毎日行うことは大変な修行といえます。でも、それだけでは完全とはいえません。 日蓮聖人が説いておられる「信じる」ことは、ただ単にお仏壇の前でお題目を口にすることではなく、自分の生活や社会に対してもっと具体的に関わっていくことを意味します。これを法華経を色読すると言います。口で読むだけでなく心と身をもってお題目を読むことが真に法華経を信じることなのです。 それによって私たちも先程のリスのように迷い無く煩悩を超えていく力が得られるのです。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 奥之院にて / 森 慈徳 先日、真如寺奥之院でお給仕をさせていただいていた時のことです。 私が境内の掃き掃除を終え、寺務所へ戻ろうとした際に、庫裏の目の前にある一本の木の根元にたくさんの雑草が生えてきていることに気がつきました。そこで、午後からその木の根元に生えている雑草を抜き始めたのです。しかし、その作業中、この雑草も必死に生きているんだと言うことを思っていると、雑草を抜いていくにしたがって自然と心の中でお題目を唱えている自分がいることに気付いたのです。 人としての感性で見ると、その雑草の一本一本が景観を乱しているように思えますが、必死に根を生やし、一生懸命その命を全うしようとしている雑草一本一本の意志が、『自分たちも命があるのに…』と私に主張しているようでなりませんでした。私は、彼らの命の火を消してしまっていたのです。だから、自然とお題目を彼らのために唱えていたのだと感じています。 今回の経験から、私たち人間は他の命を頂戴し生かさせていただいているということと、戴いた命を自分の人生に活かしていかなくてはならないということを再認識させて戴きました。考えてみると、私たちの今ある生は、様々な命を戴いてきた結果なのです。 仏様も様々な食べ物、つまり他の命を戴いてその生を全うされ、仏様の命を支え続けた他の命は、仏様の命を永らえさせるという功徳を積むことが出来たのです。しかし、私たちは仏ではありません。ですから、私たちは、私たち自身が功徳を積むことによって、私たちの命を支えてくれている他の命を活かしていくことが大切だと思うのです。 私たち僧侶が毎日の食事の前に唱える食法の一節に「我等これ(他の命)によって身心の健康を全うし、仏祖の教えを守って四恩に報謝し、奉仕の浄行を達せしめたまえ」とあります。この精神で、仏・菩薩・諸天善神に感謝し、頂いた命を忘れず日々の勤めに励まなくてはなりません。 |
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| ■ 妙乃見山 5月号 | ||
気骨 / 新實信導 「気骨」という言葉があるが、読み方一つで意味が異なる。「キコツ」と読むときは、自分の信念を守って、どんな障害にも屈服しない強い意気のこと意味する。一方、「キボネ」と読む場合は、心づかい、気苦労や心配といったことを意味するそうだ。最近では、キボネという読みの方が一般的な傾向にあるように思える。しかし明治人の性格を一言で表現すると、このキコツがぴったりとする。 私の母方の祖父母は明治生まれであった。とくに祖父は自分にも他人にも厳しい人であったことを母からよく聞かされた。だが、孫である私にとっては、畑からいつも果物を運んでくれる実に優しいおじいちゃんであった。真夏の暑い日でも畑に出かけ、スイカを取ってきてその場で半分に割ってスプーンと一緒に出された。「食べ、食べ」といわれ、まるごと一個を食べた想い出がある。 そんな祖父にも大きな苦難が待ちかまえていた。昭和二十二年頃からGHQの指揮の下、日本政府によって農地の所有制度の改革が行われた。そのため地主の農地は政府によって強制的に安値で買い上げられて小作人に売り渡された。全国の七割余りの農地が地主から小作人の所有となった。 祖父も先祖から受け継いだ土地を守り続けたが、農地改革によって多くの土地を失うことになった。わずかな土地を耕し、米や野菜などの作物を作り、その利益で手放した田畑を買い戻していった。ご先祖様が代々守ってきた土地を買い戻すために一生をかけて田畑を耕した人であった。祖父の生き方を思うたびにこの気骨(きこつ)という言葉を想い出す。 人は一生を懸けて生きているとき、苦を苦と思わずに、幸せを見出しているのかも知れない。日蓮聖人は「日々のお勤めを法華経と思われるがよい。世間一般の職業も法華経の修行と異なるものではない」と私たちに教示されている。修行とは気骨(きこつ)ある毎日の生活の中にこそ存在するのではなかろうか。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 千の風になって / 倉橋観 厳しかった冬もいつしか過ぎ、緑はまばゆく、頬をなでる風も優しい季節となりました。風というと近頃大ヒットした『千の風になって』という歌を思い浮かべます。 私のお墓の前で泣かないで下さい そこに私はいません眠ってなんかいません 千の風に千の風になって あの大きな空を吹きわたっています この歌が人々に感動を与えたのは、愛しい人の死を前にして、その人はこの世からいなくなったのではなく、姿を変えてあなたのそばに今でもいるよ、という死者からのメッセージが込められていたからではないでしょうか。 私はこの曲を聞いた時お自我偈の一節が浮かびました。 「衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず〜一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず。時に我及び衆僧、倶に霊鷲山に出づ」 私(お釈迦様)は本当は死んではいない、今も生き続けている。衆生を教え導く為に見えなくしただけで一心に私の姿を見ようとしたなら、いつもそばにいる事に気付くであろう。 毎日読んでいるお経がこの歌に触れて、改めてズシリと心に響きました。この教えは一人お釈迦様の命が永遠であるばかりでなく、私達衆生の命も永遠であると説いているのです。つまり、私達は死んでおしまいではなく、死んでも生き続ける命があるということなのです。この命とは、これからは姿、形を変えて生き続けるということです。 『千の風』の言葉を借りれば「朝は鳥になってあなたを目覚めさせる 夜は星になってあなたを見守る」のです。この気持ちを言い換えれば、亡くなった人の生き様が遺された人々を支える教えとなって心に生き続けていくことなのです。こんな言葉があります。 「老いて後思い知るこそ悲しけれ この世にあらぬ親の恵に」 よくよく噛みしめてみたいものです。 |
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| ■ 妙乃見山 平成20年4月号 | ||
奥之院落慶法要奉告文 / 日 慧 3月25日、妙見山奥之院で妙見堂始め諸堂の改修工事落慶奉告法要が営まれました。その折りの奉告文の要旨を掲載します。 (奉 告 文) 謹み敬って仏祖三宝宗祖日蓮大聖人、御開山寂照院日乾上人以来歴代の先匠、法華経擁護の諸天善神殊には開運北辰妙見大菩薩等、来臨影嚮照智照鑑なさしめたまえ。 上来御宝前に於いて修するところ能勢関西身延妙見山奥之院妙見堂始め諸堂改修落慶大法要に擬し奉る。 夫れ顧みるに、當山奥之院は開運尊星北辰妙見大菩薩奉安の霊地にして、古来衆人の信仰を集め星霜を経ること久しき処なり。堂宇幾たびか修復改築を為されたるが、近年屋根の損傷著しく早期修復を希求せられたり。平成十八年時至り、ついに修復を発願し、妙見堂、祖師堂を始め御馬堂、庫裡、事務所等の屋根葺き替え、また上水道の改修を計画。同年秋起工式を修するなり。しかるにいずれも傷みは思いのほか激しく、殊に祖師堂は床下の基礎を全面的に改めるなど大幅に工事を変更。更に山中の道は峻険にして、資材の搬入に索道が必要となり、ここに工事は困難を極めたり。 以来四季巡りてついに本日浄業の円成を見るに至るは、仏祖諸天の御加護はもとより、偏に信徒各位をはじめ地元地黄区並びに有縁各位、更には工事担当各社各位の絶大なるご理解ご協力の賜と、かく深く感ずるところなり。 世はまさに邪法はびこり戦火絶えず、末法の暗闇いよいよ深し。ここに至って本仏釈尊・宗祖大聖人の誓願を現成せんとする妙見大菩薩の霊地たる當山の使命は益々重きものとなれり。開運北辰妙見大菩薩「天諸童子以為給仕刀杖不可毒不能害」法華経の経文唐(むな)しからずして、永久に我等を導いて哀愍守護を垂れ給え。殊さら仰ぎ祈らくは山門隆昌令法久住、當山信徒をして家門繁栄所縁吉祥なさしめ給わんことを。南無妙法蓮華経 維時平成20年3月25日 日慧和南 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 開花 / 植田観龍 すっかり春らしい陽気になりました。妙見山上の桜も開花に備えしっかりと蕾(つぼみ)をつくっています。しかし蕾をつくるのは植物だけではありません。私たちの心にも花を咲かせる蕾があります。ではどうすれば花が咲くのでしょうか?それは御題目です。 日蓮聖人は釈尊がお説きになられた経典の中で法華経こそが最高の教えであると確信されました。そして四月二十八日、清澄の旭ヶ森にて朝日に向かい初めて御題目をお唱えになられ、生涯をかけて法華経を弘めることを誓願されました。 そんな日蓮聖人に帰依された信者は数多く、中には出家得度して日蓮聖人の弟子になった人もいます。法華経による救済を願う聖人の強い信念が感じられ、そういった姿勢に必然的に弟子や信者が増えていったことは納得できるものです。 私も日蓮聖人にお会いしたいという思いをもって僧侶を志したひとりです。その思いにかきたてられた聖人のお手紙があります。 「日蓮は日本第一の法華経の行者である。日蓮の弟子檀那等が日蓮より後(あの世)に来たならば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔法皇の前にて日蓮の弟子であると名乗り通りなさい。この法華経は三途の川では船となり、死出の山では大白牛車となり、冥土では灯となって霊山へ参る橋になります。霊山へ来た際には艮(うしとら)の廊(わたりどの)で尋ねなさい。日蓮は必ず待っています」。この手紙を読んだとき私の足はガクガクと震え大粒の涙が流れました。 これは臨終に際し不安を抱いているご信者に宛てた手紙なのですが、法華経がいかに尊いものであるか、また、日蓮聖人の弟子であると名乗れば何も心配することはないと大きな安心感を与え日蓮聖人にお会いできると約束されています。しかし続きにこう書かれています。「但し各々の信心によるべく候」信心があってのことです。法華経を信仰することにより浄い花をしっかり咲かせて日蓮聖人にお会いしたいものです。 |
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| ■ 妙乃見山 平成20年3月号 | ||
蕗の薹(ふきのとう) / 新實信導 今年に入ってからというもの二月にかけて、雪の降る日が多い。やっと溶けたかと思うと、翌日には一面真っ白の風景に変わることも。また雪か。日射しを見る限り春の訪れはもうそこまで来ているのだが…。 雪の下で顔を出すのが春の使者、蕗の薹。独特の香りとほろ苦さが春の息吹を感じさせてくれる。どことなくけなげな蕗の薹を見つけると元気が沸いてくる。 子供の頃、蕗の薹の天ぷらが大の苦手であった。天ぷらを口に入れると、あの苦みが口の中いっぱいに充満する。「何でこんなに苦いものを食べるんだ」と思った。母親から「体にいいんだよ」と、言われて渋々食べたが美味しくなくてイヤだった。ところが、大人になるにつれ、この蕗の薹を実に美味しいと感じるようになった。あのほろ苦い花蕾を忘れられなくなったのがなんとも不思議である。 蕗の薹は、ビタミンK、葉酸、ビタミンE、銅、食物繊維、カリウム、マグネシウム、鉄分、パントテン酸などを豊富に含んでいることに驚く。しかも、建胃剤、鎮咳剤など薬用効果もあるという。まさに冬の間にたまった脂肪を流し、味覚を刺激して気分を引き締め、新年度の活動をスタートさせてくれるのである。 冬は私たちの心にどこか閉塞感をただよわせる雰囲気がある。しかし、周りを見渡すと木の芽や草花の芽は膨らみかけている。植物たちは今年は雪が多いとか寒さが厳しいとか文句を言わず、冬の間に花や葉をひろげるための準備を着々と進めている。その姿にただ感嘆するのみである。 私たちは、木や草花の生命力から元気や勇気を頂いている。さらにはその生命までも食料として頂戴している。日蓮大聖人は「食物には、生命を持ち、容色を増し、力を蓄えるという三つの働きがある。他人に物を施せば自分自身の助けとなる」と説示されている。外はいかに寒くても心は常に温かく持ち続け、社会に貢献すること、自分にできることを行うことが大事なのである。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 人間万事塞翁(さいおう)が馬 / 宮本観靖 先日友人のK君と久し振りに会った時、面白い話を聞いた。K君は会社の部署で昇進し、そのお祝いにと出かけた時に、階段から落ちて足の骨を折ってしまったそうだ。そして病院でどうせ会社を少し休むのだからと、ついでに健康診断を受けてみると、なんと胃にポリープが見つかった。骨を折ったおかげで早期発見できて助かった。という話だった。 K君は「時代劇の歌じゃないけど、人生楽あれば苦ありやな」と言ったが、私はむしろ「人間万事塞翁が馬」を地で行っているなと思った。 この言葉は中国の故事で「塞翁」すなわち国境の砦付近に住む老人の身に、幸福と禍が交互に降りかかるこんな話である。 ある時、老人が飼っていた馬が逃げてしまった。皆は「残念だったね」と言うが老人が「いやいや、これがどんな幸いになるか分からない」と言っていると、逃げた馬がもう一頭馬を連れて帰ってきた。皆は「良かったな」と言うが老人は「いやいや、これがどんな禍になるか分からない」と言う。後日その通り、老人の息子が、その馬に乗っていると落馬して足を折ってしまった。人々は「気の毒に」と言うが老人はまた、「これがどんな幸いになるか分からない」と言う。そのうち隣国と戦争が始まったが、老人の息子は足の怪我のおかげで従軍しないですんだ。という話である。 そして格言の冒頭にある「人間」は「ジンカン」と読み、人の世、世間の意味である。つまり人の世は定めがたいものだから、一喜一憂せず冷静に対処すべきだという意味の話である。 私たちは何か事が起こるとその都度一喜一憂しがちである。特に調子の良い時ほど有頂天になってしまい自分中心で周りを気にせず、自分の足元すら見失ってしまいそうになる。本来は常に、また調子の良い時ほど自らを省み、謙虚になることが大切である。自らを省みることで自然と自分の至らぬ所が分かり、さらに向上の一歩となるのである。 |
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| ■ 妙乃見山 平成20年2月号 | ||
約束 / 日慧 つたなき者のならいは 約束せし事を まことの時は わす(忘)るるなるべし 宗祖日蓮聖人のお説きになった一節である。 仕事に追われて、ふと気がつくと大切な約束をすっぽかしてしまった。故意にではないのだが、相手があってのことなので申し訳ないという思いと、何でこんな失敗をしてしまったのかという悔悟の念が入り交じり、身の置き場がないような気持ちになってしまう。 これは大切だという事に限って起こりがちなことである。忘れないように手帳にしっかりメモしておいてその手帳をどこにおいたか忘れてしまう、などということもよくある失敗だ。 ここで「つたなき者」とされるのは、仏との対比から出た表現である。仏さまはこのような失敗を決してなさらない。絶対的に信頼できる方なのである。 法華経第2章方便品では仏が「我れもと誓願を立てて、一切衆生をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき。我が昔の所願の如き、今は已に満足しぬ」と語られる。私たち衆生を仏さまと同等の仏にしようと誓願されたのである。仏の誓う約束は必ず守られる。決してすっぽかされることはない。その約束を守るために、一切衆生を成仏に導く教え『法華経』が説かれた。かくして仏の約束は果たされ、衆生を成仏させるという誓いは満足したというのである。 但しそうは言っても、私たちは現実にはまだ成仏していないじゃないかという点が気にかかる。これについては、例えば仏の教えを命綱と考えてみたらどうだろう。苦悩の荒海でもがく私たちに命綱を仏が投げて下さっても、私たちがそれに気付き自らの手でつかまらなくては、仏は私たちを引き寄せ助けることができない。この命綱につかまるという行為が、仏の真の教え『法華経』を信じ行じるということなのである。 仏の為すべき約束は果たされた。次はそれに対して私たちの側からのアクションが必要となるのである。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 月は… / 末田真啓 昨年九月に打ち上げられた月周回衛星「かぐや」から送られてきた鮮明な映像は、「一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍」といわれたアポロ計画以来の大きな成果をもたらし、再び「月」が注目されています。 「かぐや」の映し出したクレーターの向こうの暗黒の宇宙空間から昇ってくる青く美しい地球の神秘的な映像からは、映画「2001年宇宙の旅」のオープニングの印象的な交響曲「ツァラトゥストラはかく語りき」の金管楽器の音とは違う、幽玄な雅楽の音色が響く竹取物語の美しい絵巻が見えるようでした。 「かぐや」のホームページによると、今回の打ち上げには日本の誇る低コスト(?)高性能のH2ロケットが使われたそうですが、再々の打ち上げ失敗の映像を見ていただけに正直ヒヤヒヤものでした。 その後順調に月の周回軌道に乗った「かぐや」は上空百キロから高精度のカメラによる、月の表面や内部の構造などの調査のための映像を地球に送信し、「月の起源」と「進化の謎」の解明に迫ると期待されています。 私たちにとって「月」はもっとも身近な天体です。月と地球は引力によって互いに強く結ばれているだけでなく、私たちの一生とも深く係わっています。妊娠・出産に始まり、節分・立春といった行事も、そして人生の幕引きも「月」の運行を無視することはできません。『日本書紀』には、月の神様が海を治めると記述されており、潮の干満と月が深い繋がりがあることがわかっていたのです。 日と月は、比喩としてよく使われます。日蓮聖人の御遺文に「月は西より東に向へり、月氏(インド)の仏法の東へ流るべき相也、日は東より出づ、日本の仏法の月氏へかえるべき瑞相也」と、西方から伝来した仏法は、法華経の教えで末法の闇を照らし、再びお釈迦様が教えを説かれたインドの国へ還るという、独自の宗教観を「日月」に喩えて述べられています。 | ||
| ■ 妙乃見山 平成20年1月号 | ||
年頭に当たって / 日慧 新年明けましておめでとうございます。 私は、昨年一昨年と冬の間は、千葉県中山にある日蓮宗大荒行堂の副伝師に就任し、行僧とともに寒一百日間の修行生活を過ごしており、久方に能勢でお正月を迎えました。 行中は、新年も旧年もなく、また昨日も今日もない修行生活を送りました。それに比して今年はたった一日、いやわずかな時間の経過の中で、年が旧年から新年へと劇的に変わりゆく様子を味わうことができました。除夜の鐘とともに交わされる新年の挨拶。静まりかえった境内に、突然活気が満ちあふれてくる。時間の流れにはとぎれがないのに、人々の気持ちの中には明らかに昨日とは違う新しい流れが渦巻いています。 先ほど、荒行堂の生活は昨日も今日もないと言いましたが、実は行堂の修行生活においても、新年を迎える行僧の心には厳粛な思いが去来します。仏の下で仏とともに迎えた新年。仏に与えていただいた新しい年とは、自分にとってどんな年になるだろうか。そこで何ができるだろうか。そんな思いは、修行中にあってこそ始めて得られるものだと言えましょう。 考えてみると、じっくり世の中を観察して先行きを予測し、目標を定めて進むという生き方が忘れられつつあるように思えてなりません。政治にしても場当たり的で、事が起こってから騒ぎ出すということが少なくありません。先行きをしっかり見つめようとしないから、安易に犯罪に走る人も増えているように思えます。かつてこの日本は最も安全な国でした。誰もが安心して暮らすことができる社会、しかしそれが壊されつつあるのが今の私たちの住む日本の社会です。 社会をよくするには、まず私たち一人一人がしっかりとした目標を持って生きることが大切です。その場しのぎの生き方ではなく、先行きを見通した生き方。年の初めに当たって、時代をみつめ、自分自身を観察し、今するべき事を確かめたいと思います。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 鏡餅 / 新實信導 「餅つきは、縁起の良い末広がりの八がつく28日の方が良い」「いや、福の来る29日が良いのでは」という具合に餅をつく日も人様々。また、餅を重ねる場合、二段重ねや三段重ねなど各家庭で異なる。さらに昆布や串柿などを飾る段階になるともっと複雑だ。おまけに雑煮となると丸餅、角餅、白味噌、合わせ味噌、澄まし汁、入れる具は様々。餅一つとっても各家庭にそれぞれ受け継がれ方が異なる。 そもそも、なぜ鏡餅を飾るのかというと、その年の福徳を司る吉神である歳神様が大晦日に訪れ、家々に新たな生命力や福をもたらすと考えられていた。この生命力や福のことを魂といい、歳神様によって与えられる魂なので歳魂(としだま)といった。この歳魂を形に現したものが鏡餅である。鏡餅を仏壇や神棚に供え、歳神の歳魂をその鏡餅に蓄え、これを家人一人一人に分け与えて食し、霊力を体に取り込むという考えがあったそうである。 鎌倉時代の日蓮大聖人も身延にお住まいになられていた時、お正月にご信者からお餅のお供えがあった。 むしもち(蒸し餅)六十枚・清酒一筒・山芋五十本・蜜柑二十・串柿一連のご供養の品々頂戴しました。早速、法華経の御宝前にお供え致しました。初春の三日に、種々の御供養を法華経の御宝前に捧げられましたことは、花は咲いて果となり、月は必ず満月となり、灯火に油をそそげば光を増し、草木は雨が降れば成長するように、人は善根(善い行い)を行えば必ず尊敬されて栄えるのです。その上、あなたからの正月三日の御供養は元旦にもこえ、その蒸し餅はあたかも満月のようです、と。 このように大聖人はご信者からの御供養の御礼をお手紙に述べられ、人が幸せになるには善根を積むことが大切であると教えられている。 お正月には鏡餅をお供えし、家族みんなで歳神様から頂戴した歳魂をもって、善い行いをすれば必ずや幸福が訪れるはずである。 | ||
| ■ 妙乃見山 平成19年12月号 | ||
教えること / 新實信導 「この算数の問題、よく解らないから教えて…」と息子にせがまれたので教えることになった。 「数式のイコール(=)は右と左が同じことを意味するから、公式の(○+△)×□=○×□+△×□は、同じなんだと教えても解ったようで解らない顔をしている。 30年も昔の話だが以前にも同じようなことがあった。弟が算数の宿題が解らないから教えてくれと頼まれた。何度もくり返し教えても理解してもらえない。ついに解らないことに腹立て怒ってしまった。それからというもの弟から宿題を教えてと頼まれなくなってしまった。 私は簡単な問題だから教えてやろうという軽い気持ちで臨んだが、理解できない場合、おおかた教え方に問題がある。ややもすると自分は解るから他人も同じように理解できると錯覚してしまう。これが失敗の一因である。 また、教えることは自分で行う以上に頭も体力も消費するため、つい適当になる。何が大切かというと、問題を解くヒントになるきっかけを与えることが必要である。難解な問題が解けたときの喜びは次への励みとなる。ヒントを教え自分の頭で考えさせ、自分で解かせることにより大いに自信がつく。 お釈迦様も私たちを救うためにあの手この手とを努力を惜しまず救いの手を差し延べられている。だが、覚りの心を簡単に授けようとはなされない。私たち凡夫にとっては突然授けられても何だか解らずに気が動転してしまうに違いない。 そこで、お釈迦様は覚りを経典という形として、この世に残された。経典の一字一句でも理解ができれば、お釈迦様から教えを頂戴したことになり、その感動は甚大である。まさに経典には釈尊の真心が説かれており、これを素直に承け、実践していくことが仏さまの教えを信じる私たちにとって覚りの心につながる修行でもある。 いつも仏さまは経典という心の至宝を介して私たちに救いのメッセージを投げかけられているのである。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 助け合う温かな心を / 詠裡庵 「ようやくここまでたどり着いた」 フォーマルドレスを身につけ、ワインレッドのつば広帽子を被った私。遠方の友人の結婚披露宴に招かれた帰りのこと。いつになくおしゃれをしたものの、両手にはたくさんの引き出物がぶら下げられて、もうこれ以上歩くこともできないほどに疲れ果てていた。 まだ宅配便がなかった、30年も前のことだ。でも忘れもしない。引き出物は有難いが、こうなっては重いお荷物に過ぎない。阪急池田駅に着いたのが、夜の9時頃だった。家から迎えに来てくれるはずだった。でも、電車を降りたところで、もうこれ以上歩く気力は失せていた。その時、 「重たそうですね。ひとつ持ちましょうか」 声を掛けてくださった中年の女性。 「いや、大丈夫です」 心にもない返事をしたが、 「私これを持って、あなたの後について行くから」 と言って、奪い取るように重い荷物を持ってくださった。 正直ホッとしたばかりか、とても嬉しかった。自分もこんな風にして困っている人がいれば、絶対助けてあげたい、と思った。 でも近頃は「重たそうですね、ひとつ持ちましょうか」などと、こんな言葉がかけにくくなった。 「まだこれぐらいは大丈夫です、健康のためです」 と言うお年寄りや、 「なーに」と言うような顔をしていってしまう人。 荷物ねらいの泥棒だと思っているのかもしれない。人間不信というか、助けてもらうことは嬉しいが、素直に人を信じられない世の中になってきたのだと思う。 困ったことに対して、人に助けてもらえないで、一人で抱えてしまう。一人で抱えきれなくなったとき、身体的にも、精神的にもどうしようもなくなり、病気になってしまう。人間は、互いに助け合いかばい合ってこそ、人間らしく生きていくことができるのではないだろうか。 師走という、一年で一番忙しいとき、人の心を見失うことなく、心暖かな元旦を迎えたい。 | ||
| ■ 妙乃見山 平成19年11月号 | ||
モラル・ハザード / 新實信導 賞味期限が過ぎた牛乳を使ったシチューが夕食に並んだことを思い出す。 「いま食べたシチューに使った牛乳は賞味期限切れ」 「加熱したし、すぐには傷まないから大丈夫」と、言われ何とも言えない気分を味わったことがある。 家族間ならば賞味期限切れの材料を使用してもなんら問題はない。しかし、これが企業ならば、取り返しがつかなくなるような社会問題へと発展し、企業の存続さえ危ぶまれることになりかねない。近年、食品会社の問題が話題になっていることでも知り得る。 ところで、モラル・ハザードという言葉が、ここ10年ぐらいで急速に広まり、新聞でもよく見かける。モラル・ハザードとは「倫理の欠如」という経済学の用語で、「社会全体の利益を考えずに、自分の利益だけを追求すること」と言われているが、たいらにいうとモラルの低下といえる。 ここで大切な点はモラルの低下が社会問題となっていることである。中国産を国産と書きかえて生産地を偽って出荷をしたり、賞味期限が間近なものや切れたものを日付を変更してラベルに貼り替えて出荷する。賞味期限切れの材料を使用して食品を生産するなど、食品不信は、消費者を不安に陥れる。食品の安全を考えると大企業だからとか、有名だからというだけでは安全だと言えなくなったのは事実である。 今や家庭や社会での理念が失われつつある。利益のみを追求してすぎて、少々悪いことでもばれなければよいといった雰囲気が漂っている。自己の進むべき道や目的を失い、どこか混沌とした状態に陥っている気がしてならない。 日蓮大聖人は「約束」を実に大切にされた。末法である今の世に法華経を弘めることをお釈迦さまに約束され、生涯をこの約束に懸けられたといっても過言ではあるまい。約束を果たすことは社会生活での信頼関係を築き、モラル・ハザードとは無縁となる。いま、私たちにとって約束という「真心」が問われている。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ メール / 末田真啓 携帯電話やパソコンを使って送るメールは、今では小学生からお年寄りにいたるまで、幅広い層に受け入れられて普及しています。 なかでも、若年層のメールを送る携帯電話の依存度は高く「肌身離さず」という表現が適当なぐらいに、生活に密着しているようです。混雑している電車の車内でも、小さな画面に喰い入るように、黙々とメールに没頭している光景をよく見かけます。通信手段としてだけではなく、ゲーム機の遊び感覚でメールを生活の道具のひとつにしているのではないでしょうか。 メールは、本来メッセージを他者に伝えるものですが、春先に、忘れられない不思議な体験をしました。 夕食後、アルバムの整理をしていたら、思いがけず若い頃の友人の写真が出てきました。ここ数年体調があまりよくないと聞いていたので、早速、近況報告を兼ねてメールと一緒に写真も送信することにしました。そして翌日、着信のメールを見てみると、昨晩送信したメールの返事が届いていました。それは、保母さんをしている友人の長女からのメールでした。 「父は昨晩永眠しました。父の若い頃の写真ありがとうございました。いろいろとお世話になりました…。」という、全く予想もしなかった訃報のメールでした。結局、写真もメールも友人には届かなかったことになりますが、虫の知らせというのでしょうか、前夜何も知らずにアルバムの整理をしていた頃、友人は三途の河を渡っていたのです。 日蓮聖人のお手紙に「この法華経は三途の河にては船となり…大白牛車となり…燈となり…尋ねさせ給え」とありますが、果たして友人は、遙々この娑婆世界の凡僧を「尋ね」てくれていたのです。友人の末期に拘わった一通のメールは、生涯において忘れることのできない「メール」となりました。 蛇足ですが、友人のために法華経の肝要であるお自我偈とお題目によって懇ろに供養をしたことは言うまでもありません。 | ||
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